日本のSF小説・・・

最近、SFを読んでいない日々が続いていたのですが、久々に読みました。しかも、日本人作家の作品です。実は、SF小説については、海外の作品ばかり読んでいて、日本人作家のものは読まないのです。SF小説を読み始めたころはそうでもなかったのですが・・・。今回読んだの作品は、なかなか面白い小説でした。ただ、私が好みとしている海外SFに比べるとやはり、イマイチかなと。それで、どうして、日本人作家のSFをイマイチに感じるのか、自分なりに考えてみました。

久々に日本人作家のSFを読んで思ったのは、「読みやすい」ということです。海外SFは翻訳で読みますから、文章の出来が翻訳の質に左右されます。日本のSFの翻訳の質は高いと思うのですが、どうしても翻訳独特のぎこちなさが少なくありません。また、海外SFは、舞台とか登場人物になじみがなく、舞台設定を頭の中で組み立てるのに難儀する場合があります。その点、日本人SF作家の作品は、(クセのある文体でなければ)文章が読みやすいので、変なストレスはありません。そのことは改めて確認しました。

では、どうして海外SFばかり読むのだ、どうして、読みやすい日本人作家の作品も読まないのか、ということになるわけなのです。一言でいうと、私がハードSF的な長編小説が好きで、小説の舞台設定がきちんと構築されているものを好むためです。SFは、言い方がわるいですが、しょせん、ほら話なわけです。ただ、すぐれたSFは、ほら話なりに、テーマに関しては科学的な根拠を、ブロックを積み重ねるように構築してあるとおもうのです。科学的な根拠は、時代の制約もあるし、作家の妄想とか理想の場合もあり得るのですが、不思議なことに、ある一定のレベル以上で構築してあると、リアルに感じられ、読んでいて快感があるわけです。それは、物語世界が堅牢に構築された結果、現象や行動が、あたかも、そのように、当然に、感じることが快いのだと思うのです。私の、日本人の作家の作品に対する不満は、これまで述べたような点において、構築性が低いという点にあります。よい例が、日本人の作家は、長編がうまく書ける人が少ないことです。これは、SF,文学、エンタメすべて同じだと思います。長い小説を書く人はいますが、短編や中編を並べただけの構造になっていて、それは、長編小説ではなく、単に長い小説でしかないのです。ジャンルが異なりますが、長編小説の理想と言えるのはドストエフスキーとかバルザックの長編小説です。SFでしたら、私が読んだ中では、グレッグ・イーガンの「万物理論」が一番、すぐれた「長編小説」でした。すぐれた長編小説は、エピソードを積み重ねていく過程で、その描写の味付けが濃く、また、エピソードとエピソードが有機的に絡んでいるので、俯瞰すると物語世界が一つの建築物や世界として「ある」ように感じるわけです。長編小説を読む快感は、その構築れた世界に「いる」、「ある」と錯覚させられる点にあると思います。なので、読み終わった時に、読後感とは別に、頭の中で構築された世界から去らなければならない悲しみを感じることがあります。ちょっと長くなりましたが、構築性のあるSF小説を求めていたら、どうしても、海外SFの方が面白くて、そこに落ち着いていたのです。

結論としては、構築性のある長編小説が日本人作家の作品には少ないから、ということになります。私の個人の意見ですが、構築性のなさは、小説だけでなく、美術とか産業の面でもあらわれていると思います。交響曲なんて構築性のカタマリのようなものですが、ああいったものを日本人はみずから生み出すことはなかったわけです。(近代化して西洋に学んで作った人は大勢いますが・・・)あと、私はソフトウェア開発の仕事をしていますが、新しいOSやプログラム言語、ソフトウェアを開発、提案、普及させていくというのも、構築性がないとできないことですが、日本(あるいは日本人)の存在感はほとんどありません。日本発といえばプログラム言語のRubyくらいでしょうか。あとはゲームがありますが、あれは製造業の延長からきている気がします。日本人は具体的な「物」をいじくるのは得意ですが、抽象的な「なにか」を構築するのは苦手だと思います。ただ、例外があって、どういうわけか、数学の分野において、日本から優れた数学者、業績がでているのです。数学の世界は、構築性の殿堂みないなイメージなのですが、それは私の偏見なのでしょうか。

とりとめとなく、いろいろ書いてきましたが、先ほど書いた通り、読むことに限れば、やはり日本人の書いたものがしっくりくるわけです。なので、結論としては、翻訳でない日本人作家が紡ぎだした文章で、構築性のある長編小説が読みたい・・・ということです。